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(株)関東製作所の歴史 エピソードⅠ【創業期】 ~前身会社『双菱製作所』の創業~

株式会社関東製作所 相談役 渡邉正敏の写真

関東製作所、創業約70年。
今では金型の設計・製作から、プラスチック成形、成形後加工まで社内一貫を採る事業体制。また国内では、東京・静岡・愛知・岐阜・福岡に加え、インドネシアにも拠点をもつほどに成長。

そんな関東製作所の創業の背景には、どのようなストーリーがあったのでしょう。
『㈱関東製作所の歴史 エピソードⅠ【創業期】』では、創業当時をよく知る、関東製作所 渡邉正敏相談役に、なつかしさと共に記憶をたどっていただきました。

前身会社の創業から、ご自身が社長就任された昭和40年(1965年)頃までの歴史をご紹介いたします。

 

昭和23年7月 ガラス用金型製作から始まった前身会社『双菱製作所』創業

―まずは関東製作所の創業から伺ってもよろしいでしょうか。

関東製作所の歴史は、昭和23年(1948年)7月の「木間正三郎」(相談役の父)が戦地から帰国し、『双菱製作所』を立ち上げたことから始まります。

この「双菱(ふたびし)」の由来ですが、父の出征地「ィリピン、イ、ルマ、ンガポール」の頭文字です。
この頃、江東区には当社以外にも金型製造メーカーが多かったです。

 

株式会社関東製作所 相談役 渡邉正敏の写真

渡邉正敏(わたなべ・まさとし)
株式会社関東製作所 相談役

昭和14年1月、東京都江東区で6人兄弟の長男として出生。
昭和33年、東京都立墨田工業高校卒業。中学~高校を通して野球部に所属し没頭。
同年、父が社長をしていた双菱製作所(現 関東製作所)に入社。
昭和40年、代表取締役に就任。

現在は相談役として、社内の人材育成に力を注ぐ。

―関東製作所には、前身の会社があったのですね。この『双菱製作所』はどのような会社だったのでしょうか。

父は戦前からガラス職人だったため、この『双菱製作所』もガラス用金型の製作で始まりました。
手締めのガラス金型は、口型×2、底型×1、本体×1、お椀(ガラス種の容量を測る器具)で構成されていました。サイズは化粧品の瓶から、大きいものだと一升瓶くらいほどでした。
使っているとPLがへたってしまうため、3か月ほどのスパンで入替用に次の金型を製作していました。

当時は車がなかったため、完成した金型は、近場は自転車やリヤカー、遠方だと豊橋(愛知県)や金沢(石川県)などへ電車で運び、納入しました。大きなものは重たくて持てないため、運送業者も利用していました。

出来上がった金型は、いくつかに分けて南京袋に入れ、自転車の荷台にくくりつけ、手分けして運びました。当時の江東区は川が多く、橋があると運搬が大変でした。

父は『双菱製作所』とは別に小松川(東京都江戸川区)で『東光硝子』という制瓶会社も経営しており、運搬の手伝いをしていました。

 

保土ヶ谷(神奈川県横浜市)の日本硝子さんに納入した時は、金型を2~3個一度に運びましたが、駅の停車時間中に降ろすことができなかったことがあります。次の駅まで行ってしまい、折り返してきて他の社員に待ち構えてもらっていて積み下ろしました。

当時は、金型の運搬一つとっても、今よりも苦労が多かったですね。

もっとも、この『東光硝子』は5年ほどで閉めてしまいました。私も学生時代のことであまり関わっておらず、その理由まではわかりません。

昭和30年代に入り、ガラス用金型からプラスチック用金型への転換

―ガラス用金型の製造でスタートした双菱製作所は、その後、プラスチック金型の製造に変わっていったのですね

ガラス用金型の製作で始まった『双菱製作所』ですが、昭和30年ごろからプラスチック用金型の製作を開始しました。
私は昭和33年(1958年)に高校を卒業し、いすゞ自動車関連の会社に修行のつもりでいったん就職しました。ですが父が入院したこともあり、一週間ほどで呼び戻され、双菱で働くことになりました。

 

現 東京都江東区扇橋1丁目~猿江2丁目辺りの風景

↑写真は、現 東京都江東区扇橋1丁目~猿江2丁目辺りの風景
※『江東区の昭和 写真アルバム(出版者:いき出版/出版年:2017.6)』より抜粋

 

―当時の主力製品はどのようなものだったのでしょうか

この頃主に製作していたのは、プラスチックの食品容器の金型でした。キューピーマヨネーズや、「チューチュー」などと呼ばれていた棒ジュースが多かったです。食品、飲料の他には、2~3L程の洗剤の容器の金型も製作していました。さらに大きなものでは、20Lの灯油缶の金型も多く製作しました。

私や弟の嘉明(現在の渡邉顧問)にとっては、やはりキューピーの金型が一番印象深いですね。
当時はドライバーがいないので、製作した金型を、よく自分たちで仙川(現在の東京都調布市)まで納めに行っていたのをよく覚えています。

 

この頃は今とは違ってNCの削機械がなかったので、フライスや旋盤、ボール板で製作していました。
当時の材質は鋳物で、図面から起こしたゲージに合わせ、たがね、きさげ(ノミ状のスクレーパー工具)でも削っていましたが、この金属加工工具も自作していました。
灯油缶で使う45Rを掘れるボールエンドミルもなかったので、自作しましたね。

文字や柄といった細かい部分も、ベテランの職人の手彫りや、曲面部分は腐食加工で製作していました。

すべてが手仕事の時代でした。

 

多層ブロー成形品のマヨネーズの容器のイメージ写真

 

―この頃はどのくらいの規模の会社だったのでしょうか

この頃の社員数は10数名の会社でした。父の兵役時代の縁で集団就職を受け入れていたため、富山や山形出身の方が多かったです。

この時代はとにかく資金に苦労しましたね。手形の交換にもあちこちに行きました。
キョーラクさんとはすでに取引がありましたが、支払日より早くいただきたいために、京都の本社までよく足を運んだものです。

 

昭和35年に『双菱製作所』から『関東製作所』に社名を変更しているんですが、当時は我々も若かったため、なぜ『関東製作所』という社名になったのかの由来は、残念ながら覚えていません。父が知人につけてもらったと記憶しています。

 

昭和30年~40年代、世間はフラフープブーム

―昭和30年代で印象深いエピソードを伺えますでしょうか

昭和30年代~40年代は、容器の他にもおもちゃ関連の型も色々作りました。
特に当時のフラフープの流行はすごかったですね。昭和33年(1958年)にアメリカで流行ったというニュースが来て、たしかその年の秋ごろからデパートで売り出しました。

これがものすごく流行って社会現象にもなったんですが、同じ年の11月に、遊んでいた子供が怪我をするという事故があって禁止になったんですね。
なので流行の期間は短かったんですが、このブームの頃は金型だけでなく、フラフープ関連の機械を作っていました。フラフープそのものを作るのではなく、素材のパイプを押し出す機械(※)を作りました。

資金的には大分助かりましたが、当社は製品自体を作ってはいなかったので、そこまでは儲かりませんでしたね。

素材のパイプを押し出す機械
ペレット状のプラスチック原料をブロー成形機にて溶かして、パイプ状にします。これを通称パリソンと呼びます。
パリソンは通常上から下にでてくるのですが、これを水平(横方向)にこの機械で押し出し、5mほどある水槽の中を通し、パイプを硬化させました。

 

昭和40年代、現 錦糸町辺りを走っていた様子

↑写真は、昭和40年代、現 錦糸町辺りを走っていた「都電38系統『錦糸堀車庫』行き」
※『江東区の昭和 写真アルバム(出版者:いき出版/出版年:2017.6)』より抜粋

 

―社会現象にもなったフラフープは、当社にも影響があったのですね

フラフープの後は『ハンドフープ』というおもちゃがありました。この時は製品も当社で製作しました。2トントラックの荷台いっぱいに製品を作った記憶があります。
ピークの頃は、パイプ作りが忙しかったために、取引先にお願いして金型の納期を遅らせてもらうほどでした。

 

昭和40年代、現相談役である渡邉正敏の社長就任

―では次に、昭和40年代で印象深いエピソードを伺えますでしょうか

昭和40年(1965年)に父の跡を継ぎ、代表取締役に就任しました。

当時はとにかく、がむしゃらに金型製作に没頭していましたね。
大変なこともいろいろありましたが、弟の嘉明(現在の渡邉顧問)と二人三脚で頑張ってきたからこそ、ここまで築いてこれたのだと思います。

 

この頃もプラスチックの容器やケース、雑貨関連の金型を主に製作していましたが、特に多く製作したのは、エアモールドという工具類を収納するケースの金型です。また灯油缶や、太陽光でお湯を沸かすタンクや、家庭用プロパンガスのボンベ用カバーなどの金型も製作しました。

ボンベ用カバーは5~10L、灯油缶も10L~20L程、太陽光タンクは200L程の大きさでした。もっとも今の金型はさらに大きくなっており、比べ物にはなりませんね。

 

この頃は、倣い(ならい)フライスが開発されましたので、木型を反転して石膏で型を取り、倣い(ならい)の金型も製作していました。
手仕事の時代よりも断然速くもなり、精度も上がりましたが、とにかく寸法出しに気を使いましたね。

 

倣い(ならい)の金型
まず木型モデルを作り、そこから反転モデルである石膏像を取り、その石膏像から金型を作成します。金型素材となる鋼材を同じ形に削り出す「倣い加工」によって、製品形状を削り出します。
倣いの金型の取扱では、モデルをなぞる棒状のピン(スタイラス)と切削工具(エンドミル)の径が遊び分などわずかながら一致しないため、寸法だしや調整に苦労したとのことでした。

 

また素材に鋳物でなくZAS(亜鉛合金)が出てきたので、手彫りではなく鋳造で金型を製作するようになりました。石膏像を作り、その石膏像で砂型を取り、そこに溶かしたZASを流し込んで金型を作るという製作方法で、手仕事に比べると格段に楽になりました。

この後自動車関連の仕事が増えてきて、ブルドーザーの屋根やバンパー、センターコンソール、アームレスト、タイヤカバーなど色々作りましたね。

 

現 東京都江東区東陽6・7丁目付近の風景

↑写真は、現 東京都江東区東陽6・7丁目付近の風景
※『江東区の昭和 写真アルバム(出版者:いき出版/出版年:2017.6)』より抜粋

 

―昭和40年代頃の会社の規模はどうなっておりましたでしょうか

まだ会社は小さく、15〜20人くらい、住み込みで働いていてくれていました。立て替える前の森下工場に、3段ベッドが確か4つ有りましたね。
また、社員とその家族と一緒に、バスで社員旅行をしたのもいい思い出です。

そんな、社員みんなが家族のように過ごせる居心地。時代を経ても、それはずっと残していってほしいものですね。

 

昭和50年頃、当時の社員とそのご家族で餅つき大会を催した際の様子

昭和50年頃、当時の社員とそのご家族で餅つき大会を催した際の様子

↑写真は、昭和50年頃、当時の社員とそのご家族で餅つき大会を催した際の様子

 

当時のブロー金型を扱う会社にしては様々な挑戦をしていましたが、渡邉相談役は「父が新しいことや機械に興味を持つ人だった」とお話しくださいました。

先ずは戦後に事業を立ち上げたこと、そしてガラス用金型からプラスチック用金型への転換、そして金型だけでなく成形機等も作成。
金型に留まらず、新しいことに挑戦する姿勢は創業当初からあり、それが今の経営理念「チャレンジ精神」にも受け継がれています。

我々も新規事業に取り組んでいますが、先人の積み重ねに負けぬよう頑張らないといけないと改めて感じるお話でした。

 

あとがき

そして時代は流れ、昭和50年代に入っていきます。

この頃より関東製作所の規模は徐々に拡大していき、現在の本社工場、そして猿江工場の新設が相次いでいきます。まさに『成長期』を迎えます。
この頃の関東製作所にはどんなストーリーがあったのでしょう。そして昭和50年代の製造業界とは?

次回記事『関東製作所の歴史 エピソードⅡ』を、ぜひお楽しみください。

 

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